新しい時代の働き方コラム

【対談シリーズ第1回】人的資本経営の現実と課題

2025年10月29日 09:00 カテゴリー : 新しい時代の働き方コラム

特別対談

~企業の8割が形式対応に留まる現状を打破するには~

2023年の人的資本経営開示義務化から3回目の開示を迎えた今、企業の取り組みには大きな格差が生まれています。表面的な対応に留まる企業が8割を占める一方で、真の組織変革を実現している企業との差は何なのか。現場で多くの企業を支援するMamasan&Company田中氏と人的資本経営を研究する松井氏が、その実態と課題に迫ります。

人的資本経営「第二段階」の現実

松井氏:田中さん、2023年の人的資本経営開示義務化以降、企業の取り組みに大きな変化が見られますが、現場ではどのような状況を目の当たりにされていますか?

田中氏:まさに松井先生がおっしゃる通りです。私たちが大企業の現場で見ているのは、人的資本経営は意識されてはいるものの、実際の働き方改革は表面的、DXはシステム導入だけで業務改革が伴わない、さらに育児介護休業法の改正や副業・兼業解禁への対応も制度だけ作って運用が機能していない、という状況です。

これらがバラバラに取り組まれているため、投資家が期待する「人的資本の価値向上」が実現できていません。

松井氏:私も研究の中で同様の課題を感じています。人的資本経営について整理すると、2021年のコーポレートガバナンス・コードの改訂、2023年の有価証券報告書での開示義務化という流れがありましたが、現在は「第二段階」に入っています。単なる開示から、実際の企業価値向上への転換期ですね。

私が毎年約3,000社の開示内容を分析していますが、充実した働き方の変化に対応できている企業は2割もないというのが実感です。

法改正への対応が追いつかない企業の実情

松井氏:一方で、労働法制も大きく動いています。2025年の育児介護休業法改正は特に大きな変化ですが、企業側の受け入れ体制についてはいかがでしょうか?

田中氏:まさに「第二段階」という表現が的確だと思います。現場で見ていると、開示のための数値作りに追われている企業と、本当に組織変革を進めている企業の差が鮮明になってきています。

より柔軟な働き方が法的に後押しされても、企業側の受け入れ体制が整っていないのが実情です。私たちが定期的に開催している懇親会には、お客様企業の担当者の方々にお越しいただくのですが、そこで感じるのは「時間的な余裕が生まれた」という声がある一方で、「具体的にどう変革すればいいかわからない」という悩みです。

松井氏:興味深い観察ですね。働き方改革で過重労働は減少したものの、次のステップである戦略的な改革への移行で多くの企業が足踏みしている状況がうかがえます。

根本的な問題:時間ベースから成果ベースへの転換

田中氏:根本的な問題は、まだまだ日本の企業が「時間ベース」の発想から抜け出せていないことだと思います。人的資本を投下する量と回収する量の関係が見えにくいんです。

例えば、ITの設備投資なら効果が測定しやすいですが、人的資本の場合はそう簡単ではない。特に歴史ある大企業では、組織人としてうまく立ち回ることが重視されがちで、「上司より早く帰れない」といった慣習がいまだに残っています。

松井氏:それは重要な指摘ですね。日本企業の多くが、いまだに「時間管理型」の労働観から脱却できていない。これは人的資本経営の本質的な課題でもあります。

田中氏:まさにその通りです。育児中の方を例に取ると、本当の事情で急遽帰らなければならないという「就労時間の不安定性」を、企業側も本人も「問題」として捉えてしまう。結果として、優秀な人材が能力を発揮できない状況が生まれています。

私たちに応募してくださる方が月300名を下ることがないのも、こうした従来の働き方では能力を活かせない方々が多いからだと思います。

業務設計の根本的見直しの必要性

松井氏:企業は「制度対応」ではなく「働き方の根本的な再設計」が必要になりますね。田中さんの会社で実践されている業務分解のアプローチは、まさにこの課題への一つの解答だと思いますが、具体的にはどのような手順で進められているのでしょうか?

田中氏:まず現場に入り込んで業務フローを可視化しますが、重要なのは従来の「フルタイム・オフィス勤務」前提ではなく、「時間と場所の制約下でも成果を出せる」設計への転換です。

具体的には、各業務を最小単位まで分解し、成果指標を明確化し、それぞれに適した働き方を設定します。私たちの「ママさん」たちは、育児介護の制約や副業という働き方の中で、この手法を10年以上実践してきました。

この実践知が、今企業が求める「多様な人材活用」の本質なのです。

松井氏:非常に先進的なアプローチですね。実際、今後の労働法制も田中さんがおっしゃるような方向性に動いています。2025年の育児介護休業法改正から、労働基準法改正による多様な働き方への徹底した変革まで、人的資本経営の戦略を構築して臨む必要があります。

人的資本の価値測定の難しさ

田中氏人的資本経営の最大の課題は「価値の測定」だと思います。設備投資なら投下した資本と回収できる利益の関係が見えやすいですが、人材への投資は効果が見えにくい。

特に日本の組織では、直接的な売上・利益に関係する仕事だけでなく、「組織人として組織の中でうまく過ごしていく」ことも求められる。これが生産性向上を阻害している面もあります。

松井氏:まさに本質を突いた指摘ですね。日本的な「メンバーシップ型雇用」の課題とも言えます。ジョブ型雇用への移行が議論される背景には、こうした曖昧な価値基準の問題があります。

田中氏:そうですね。私たちのBPOサービスを導入していただくことで、業務の価値や成果に着目した風土への変革も提案しています。「時間ベース」から「成果ベース」への働き方の転換です。

1時間でできる成果と8時間でできる成果が同じなら、1時間の方が価値が高い。これは当たり前のことですが、実際の人事制度に反映できている企業は少ないのが現状だと思います。

変革企業と停滞企業の決定的な違い

松井氏:田中さんの現場での観察として、人的資本経営で成功している企業と停滞している企業には、どのような違いがあるとお考えですか?

田中氏:決定的な違いは「業務プロセス改革を先行させているかどうか」です。成功している企業は、まず現場の課題を徹底的に洗い出し、業務フローの見直しから始めます。

逆に、最初に「このシステムを入れたい」「この制度を作りたい」と相談される企業は大抵うまくいきません。蓋を開けてみると、業務フローの問題、評価制度の問題、コミュニケーションの問題が複合的に絡んでいることがほとんどです。

松井氏:それは興味深いデータと一致しますね。2024年の『DX白書』では、DX成功企業の87%が「業務プロセス改革を先行」させているのに対し、失敗企業の72%は「技術導入を先行」させているという結果が出ています。

田中氏:まさにその通りです。技術やシステムは手段であって目的ではない。本質的な課題解決なくして、真の人的資本経営は実現できないと思います。

2025年法改正への実践的対応策

松井氏:2025年の育児介護休業法改正では、より柔軟な働き方への対応が企業に求められます。具体的にはどのような準備が必要でしょうか?

田中氏:まず重要なのは、「制度を作る」ことと「制度を運用する」ことは全く別だという認識です。多くの企業が制度整備で満足してしまいますが、実際に機能させるためには業務設計の根本的な見直しが必要です。

例えば、時短勤務の社員がいても業務が滞らない仕組み、急な休暇に対応できる業務分担、在宅勤務でも品質を保てる標準化など、現場レベルでの具体的な対応策が不可欠です。

松井氏:実践的なアドバイスですね。制度と運用のギャップを埋めるためには、まさに田中さんがおっしゃるような「業務プロセスの可視化」が重要になってきます。

次回への展望

松井氏:本日は人的資本経営の現状と課題について、現場の実情を交えてお話しいただきました。多くの企業が直面している「開示はできても変革ができない」という状況の背景がよく理解できました。

田中氏:ありがとうございます。重要なのは、人的資本経営を「コスト要因」ではなく「競争優位の源泉」として捉えることだと思います。制約がある働き方を前提とした組織設計こそが、これからの時代の差別化要因になるはずです。

松井氏:次回は、その具体的な解決策として、田中さんの会社で実践されている「4000ID」システムの誕生秘話について詳しくお聞きしたいと思います。

まとめ:人的資本経営成功の3つのポイント

  1. 制度対応から業務改革へ:表面的な制度整備ではなく、業務プロセスの根本的見直し
  2. 時間ベースから成果ベースへ:労働時間ではなく成果で価値を測る仕組み
  3. 技術導入前の課題整理:システム導入よりも業務プロセス改革を先行

次回予告:【第2回】4000IDが生まれた必然性 ~制約から生まれたイノベーション~

この対談シリーズでは、人的資本経営の実践的な課題解決策を、理論と実践の両面から探っていきます。ご質問やご感想は、ぜひコメント欄でお聞かせください。

【対談者プロフィール】

 Mamasan&Company 株式会社
 田中 茂樹 (たなか しげき) 代表取締役
企業の経理・情報システム部門を経て、在宅ワークチームの運営モデルを創出。その経験をもとにMamasan&Companyを創業。4000ID規模のリモート運営において業務プロセスの可視化・再構築を実現し、組織の生産性向上と人的資本経営の実践に豊富な知見を持つ。
人的資本やイノベーション政策を横断的に研究し、政策・学術・実務をつなぐ専門家。多数の企業や自治体において、理論を実務に落とし込む支援や講演を実施し、組織運営・人的資本経営に関する深い知見と実践的アプローチを提供。雇用系シンクタンク iU組織研究機構  
松井 勇策 (まつい ゆうさく) 代表理事 ・社労務士
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